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映画『ジョーカー』について語る 〜ジョーカーはなぜジョーカーになったのか〜

映画
この記事は約3分で読めます。

本日はお休みな日曜日。

おうちで映画を見て過ごしました。

見た映画はコチラ、2年前の2019年10月4日に公開された『ジョーカー』です。

ストーリー

DCコミック「バットマン」に登場するヴィランのジョーカーの誕生を描いた映画です。

「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸にコメディアンを夢見る、孤独だが心優しいアーサー。 都会の片隅でピエロメイクの大道芸人をしながら母を助け、同じアパートに住むソフィーに秘かな好意を抱いている。 笑いのある人生は素晴らしいと信じ、ドン底から抜け出そうともがくアーサーはなぜ、 狂気溢れる<悪のカリスマ>ジョーカーに変貌したのか? 切なくも衝撃の真実が明かされる!

オフィシャルサイトにあります。

ネタバレなしで感想

かなりのパワー、メッセージ性がある映画だと思いました。

舞台は1980年代のゴッサムシティ(アメリカの架空の都市、たぶんニューヨーク)でインターネットのない時代なのですが、現代のインターネット社会に通ずるものがあるでしょう。

現代社会で一般の人が認められるとされる状態になるのに手っ取り早いのは、SNSで「いいね」をいっぱいもらうことです。

ただ、時にこの「いいね」は、善とされることだけでなく悪とされることにもつけられることがあります。

したがって、悪いことでもいいから評価してくれるなら喜び満足する、さらに過激なことをやりたがる、そういった人が一定数存在するでしょう。

コメディアンになりたいという夢をもち、愛されたいという思いをもっていた主人公のアーサー。

それが壊され崩され打ち砕かれて、何も失うものがなくなってしまった人がそれでも承認欲求を満たしたくなったとき、屈折して悪に転じてしまうのかなと思いました。

また、主演のホアキン・フェニックスの演技には目を見張るものがありました。

さすがアカデミー賞 主演男優賞を受賞した

特筆すべきは笑いの演技。

主人公のアーサーには笑いたくないときでも笑ってしまうというある種の障害があるのですが、その笑いにも表情があるというか、物語が進んでいく中で笑いの質が変わっていくというか、笑いの中にもだんだんと恐ろしさを感じてしまいました。

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注:これ以降はネタバレを含みます。

結局『ジョーカー』は何なのか

映画のラストシーンでアーサーは「ジョークを思いついた」といいます。

それを話すように頼まれるも「理解できない」と話しません。

このジョークとは何なのか、なぜこのシーンがラストだったのか、考察していきたいと思います。

結論として、現実はあのラストシーンだけで、これまでの物語は全て彼の妄想、ジョークなのではないかと考えます。

バットマンの宿敵として描かれるジョーカーがよく用いる手法が、人々の感情を扇動することでした。

ジョーカーがジョーカーになっていく物語は、淡々と、でも確実に進んでいっていました。

そしてその物語には、抑圧の酷さからそう狂ってしまうのもしょうがないという思いさえ起こさせます。

そう、我々は悪役であるはずのジョーカーを肯定するように扇動されていたのです。

ジョーカーの言動がいつも出鱈目であったように、ジョーカーの誕生物語としてアーサーが語った物語もジョークだったのだと考えます。

実はこの映画を見るのは2回目でした。

初めて見たときからそういう考えはあって、その考えをもって見れば、劇中のさまざまな違和感にも納得がいくような気がします。

まとめ

映画『ジョーカー』は、人によって解釈や捉え方が異なる映画だと思います。

ここまで書いてきたのは、あくまでも私の解釈です。

あなたが見ればきっと別の解釈があるかもしれません。

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